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あるはいまつのどくはく
ある偃松の独白
中村 清太郎
Read ある偃松の独白 (あるはいまつのどくはく) by 中村 清太郎 (なかむらせいたろう) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 132,905 characters · 262 screens
山は迫って、夏も雪を蔵しているが、一路はまず紛れもなく、半日程にして村里に通ずる。
両方から山のせまり合っていること――ちょっと想像の外だ――が、同時にまた山の深いことを思わせる。谷の幅は、山の中腹でも三町とはあるまい。陸地測量部員の測ったところでは、温泉から頭上に仰ぐ百貫山の頂きまで、直距およそ八百メートル、傾斜は三十六度三十分という事だったが……。近所に雪があるといっても、夏はずいぶん暑い。蚊もいる。そのうえ人を刺す双翅類の悪虫が四、五種はある。だが朝晩はさすがに涼しい。そしてその朝夕が、大へん長いのだ。
朝陽は、夏でもようやく七時ごろ、峡谷の側壁をなす山の凹所凹所から、谷間へ斜めに射し込んできて、もくもくと木深い山の傾斜を浮き出させるが、前山の頂きを越えて、宿の廂をのぞくのは、九時ごろになる。まして谷底の水面に達するのは、既に十時を過ぎた時分だ。午後三時といえば、日輪は早くも後山に隠れて、谷間は暮色をただよわす。峯ごしの光りだけが、前山の腹から胸、胸から首……とだんだんに移ってゆく、西山の影がそれを追うて這い登るのだ。たちまち最後の陽光が、熟した果実の色に、百貫山の峯頭を染める刻限には、宿のあちこちに燈火(石油ランプ)がちらめいて、谷底は既に夜である。