Japanische Klassiker mit Furigana
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わすれのこりのき
忘れ残りの記
吉川 英治
Lesen Sie 忘れ残りの記 (わすれのこりのき) von 吉川 英治 (よしかわえいじ) auf Japanisch mit Furigana. JLPT N2. Tippen Sie auf ein Wort für die Bedeutung.
N2 · Fortgeschritten · moderne Kanji und Kana · 193.050 Zeichen · 383 Bildschirme
――その朝にかぎって、こんな事があった。
父は茶好きで、おまけに、毎朝暗いうちに眼をさます。同時に、湯加減よく、濃い煎茶の一ぷくが、すぐ出ないと、機嫌がわるい。
多年のその習慣で、今朝も母が未明に起きて、勝手口のガス七輪で、お湯をわかしていると、病床の方から「おいく、おいく」と人恋しそうに、何度も呼ぶ。「はい、ただ今」と答えながら、とにかく先に、茶を入れて、いつものように、母が枕元へ持って行くと、父は起き直って、「なあ、おいく。今朝ばかりは、おまえの姿が、観音様のように見えたよ。観音様が台所にいるかと思った……」と、手を合しかけたので「いやですよ」と、母は笑いにまぎらしたが、そんなに云われたのは、夫婦となって、今朝が初めてだったので、うれし涙がこぼれたと、母は云った。
それから、少したって、「今朝は、むすびにしてくれ」というので、膳にのせてゆくと、手さぐりで、床の上に畏まった。もう視覚もきかなかったものとみえる。それでも、父は畏まって、むすびを喰べた。病中いちども、あぐらや、寝そべッた儘で、食事した例はない。そういう人であった。その晩の十一時三十五分に息をひきとった。