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ノア

ノア

久生 十蘭

「富士」1950(昭和25)年2月号~4月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 77,285 字 · 153 页

青空文庫

何万噸という重さを運んでくる怒濤が舷を打ち、だしぬけに船の真上で雷の音がしたと思うと、滝のような豪雨が突風に伴って襲いかかった。

「荒れてきたぞ」

最初の怒濤がきた。のけぞって見なければ頂が見えないような高い波が岩のような塊になって甲板へ落ちかかり、一撃で一番のボートを粉々にし、二度目の波がヤンマーをマッチ箱のようにへしつぶした。狂風が千切り、怒濤が砕いたものを、豪雨が洗いざらい押し流した。風は空からではなく、海から空へ一秒の休みもなく吹き、虚空には幾千万の鞭を揮うような鋭い音が満ちわたって、雨の水飛沫で三メートル先のものはなにも見えなくなった。

気圧計は二八・二〇になった。立山丸は颱風圏の右半円の前象限に居り、中心が一分ごとに近づきつつあった。今までの擾乱はほんの前触れにすぎず、風位がいくらか北へ移ったと思うと、猛烈な風が信じられないほどの力で船を吹き飛ばしはじめた。悪いことにはマナイの長い岩礁が右舷に見えだした。飄々と吼える強風と怒濤の晦冥のなかで、刻々にそのほうへ吹きつけられていた。

「荒天浮錨、用意」

十人ばかりの船舶兵が下艙から駆りだされてきて、太い円材をおなじ長さに切って三角形の巨大な枠をつくり、帆布で包んでロープでがんじがらめにし、波のひいたところを見はからって海へ投げおろした。