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もみノきはのこった
樅ノ木は残った
山本 周五郎
01 第一部
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 页
――ずっとまえからよ。
と新八に云ったことがある。
――でも兄はだめなの。ずいぶん辛抱づよく云いよるんだけれど、てんで見向きもしないのよ、見ていて可哀そうなくらいだわ。
いまもくどくど頼んでいるのは、なにか酒の肴を持って来て、酌をさせてもらいたい、とせがんでいるようであった。だがまもなく、六郎兵衛が「みや」と尖った声で呼び、云いさとされたのだろう、お久米はそっと帰っていった。こちらにいる新八にも、お久米の落胆していることがわかるような、よわよわしく哀しげな挨拶ぶりであった。
「ああ、今日お客さまがみえましたよ」
給仕をしながらおみやの云うのが聞えた。
「野口、いいえ、あらいやだ、なんていったかしら、野口じゃなかったわね」
「もの覚えの悪いやつだ」
「さっきまでちゃんと覚えていたのよ」
新八がこちらで咳をし、そして云った、「野中又五郎といっておられましたね」
「あら、そうかしら」
「野中又五郎といっておられましたよ」
「わかった」と六郎兵衛が云った、「野中ならわかっている、飯にしてくれ」
「あら、もういいんですか」
「飯にしよう」と六郎兵衛は云った、「すぐでかけなければならない」