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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

01 第一部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 页

青空文庫

又五郎もさわも、礼儀ただしく新八に挨拶をし、「よろしく頼む」と云って、挨拶が済むとすぐに、又五郎は妻を横にならせた。

新八は奥の六帖をとり、かれらは勝手に続いているほうの六帖をとった。

――客のようなつもりでいてはいかんぞ。

と六郎兵衛は云った。新八はこれまで、客のようなつもりでいたこともないし、そういう扱いをうけた覚えもなかった。しかし、野中の人たちの、生活に疲れきったような姿を見ると、自分にできる限りのことはしよう、と思ったのであるが、さてなにをしたらいいかとなると、まったく見当がつかなかった。

「なにか用があったらそう云って下さい」と新八は、繰り返した。

又五郎は礼を云い、迷惑をかけて済まない、なにも頼むような用はない、どうか心配しないでもらいたい、と云うばかりであった。

お市も静かな子で、なにか用事をするときのほかは、母の側に坐ったまま、黙ってしんとしていた。あとでわかったのだが、そういうときその少女は、読書か習字をしているのであった。素読は父の又五郎が教え、母が習字や針の使いかたなどを教えていた。しかし素読のときのほか、教える声も答える声も低く、殆んど囁くようで、うっかりすると、誰もいないかと思われるほどであった。