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もみノきはのこった
樅ノ木は残った
山本 周五郎
01 第一部
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 页
彼は眉をしかめ、顔をそむけながら立ちあがった。
甲斐は障子をあけて、廊下へ出た。するとそこに宇乃が佇んでいた。ずっとそこにそうしていたらしい、両袖を胸に重ねて、身動きもせずに、雪の舞いしきる庭の、ひとところを見まもっていた。
「なにを見ている」と甲斐が訊いた。
「あの樅ノ木に、雪がつもっています」と宇乃が云った。宇乃はこちらを見ずに云った。甲斐も黙って頷いた。
樅ノ木は雪をかぶっていた。雪はこまかく、かなりな密度で、鼠色の空から殆んどまっすぐに降っていた。しはらく乾いていたために、地面はもう白く掩われ、庭の樹木や石燈籠なども白くなり、境の土塀の陰も、雪の反映で、暗いままに寒ざむと青ずんでみえた。
「私は明日、船岡へ帰る」と甲斐がいった。
すると宇乃が、彼のほうへくるっと向き直り、大きくみひらいた眼で、まっすぐに彼を見あげた。その眼は、みひらいたままで、たちまち涙でいっぱいになった。
「おじさま」
宇乃はそう云って、衝動的に、両手で甲斐に抱きついた。甲斐は少女の肩へ手をおいた。宇乃の手に力がこもり、柔軟な躯をぴったりと彼にすり寄せた。甲斐は、宇乃の躯の柔らかさを、自分の膚で感じた。