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ししゃのしょ

死者の書

折口 信夫

「日本評論 第十四巻第一号~三号」1939(昭和14)年1月~3月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 62,340 字 · 126 页

青空文庫

七

姫は又、あの俤を見ることが、出来たのである。

南家の郎女の幸福な噂が、春風に乗って来たのは、次の春である。姫は別様の心躍りを、一月も前から感じて居た。そうして、日を数り初めて、ちょうど、今日と言う日。彼岸中日、春分の空が、朝から晴れて、雲雀は天に翔り過ぎて、帰ることの出来ぬほど、青雲が深々とたなびいて居た。郎女は、九百九十九部を写し終えて、千部目にとりついて居た。日一日、のどかな温い春であった。経巻の最後の行、最後の字を書きあげて、ほっと息をついた。あたりは俄かに、薄暗くなって居る。目をあげて見る蔀窓の外には、しとしとと――音がしたたって居るではないか。姫は立って、手ずから簾をあげて見た。雨。

苑の青菜が濡れ、土が黒ずみ、やがては瓦屋にも、音が立って来た。

姫は、立っても坐ても居られぬ、焦躁に悶えた。併し日は、益々暗くなり、夕暮れに次いで、夜が来た。

茫然として、姫はすわって居る。人声も、雨音も、荒れ模様に加って来た風の響きも、もう、姫は聞かなかった。

七

南家の郎女の神隠しに遭ったのは、其夜であった。家人は、翌朝空が霽れ、山々がなごりなく見えわたる時まで、気がつかずに居た。