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ささめゆき
細雪
谷崎 潤一郎
02 中巻
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 194,628 字 · 371 页
「板倉さん」
と、幸子が云った。
「えらい目エに遭やはったわなあ。あんた見たいな人がそない痛い痛い云やはるのんやったら、………」
そう云いかけて、ハンカチで鼻を摘んだ。
「兄さん、蘆屋の御寮人様でっせ」
と、妹も寄って来て云ったが、
「まあ、そない云わんと置きなさい」
と、幸子は制して、
「痛いのんは左の脚や云うことやないか」
「そうやねん。―――右の耳を手術したよってに、右を上にして臥んならんのんで、痛い方の脚が下になるねん」
「えらい都合が悪いねんなあ」
「そんで、なおのこと痛がるねんわ」
病人の肌理の粗い額には、痛苦を怺える脂汗が一杯に滲み出ていた。さっきから蠅が一匹、ときどき病人の顔に来てとまるのを、妙子がしゃべりながら手で追い払ってやっていたが、突然、病人が「痛い痛い」と云うのを止めて、
「おしっこや」
と云った。
「お母さん、兄さんおしっこ」
妹が云うと、向うの壁に凭りかかっていた母親が立って来て、
「御免下さりませ」
と、小腰を屈め、寝台の下に新聞紙に包んであった溲瓶を取って、病人の毛布の間に挿し入れた。
「それ、又えらいで」
母親がそう云う途端に、
「痛いッ、―――」
と、病人は、今迄の譫語のような調子とは全然違う狂気じみた声を発した。