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しっちょうき
失蝶記
山本 周五郎
「別冊文藝春秋」文藝春秋新社、1959(昭和34)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 22,072 字 · 44 页
あのとき私は、いっそ十兵衛も、斬ってくれようか、とさえ思ったくらいです。しかしいまはそうは思いません、私はここへおちつくまでに、いろいろな世評を聞きました。私があなたにおもいをかけていて、恋の恨みで杉永を闇討ちにした、というのです。ばかげた噂だが、情痴の話となると人は信じやすい。おそらく、あなたも十兵衛もその噂を信じ、そのため私を杉永の仇と思いこんだのであろう、だとすれば、あなたや十兵衛を責めるわけにはいかない。そう考えてから、ようやく私は気持がおちつきました。
私はいま山の中にいます。治兵衛の娘のおすえが付いていて、身のまわりの世話をしてくれますから、べつに不自由なことはありません。おすえには家へ帰れと云うのですが、どうしてもはなれようとはしません。うちへ帰ってもお父っさんが、どうなっているかわからない、と云うのです。私にもそれがなにより気懸りです、治兵衛は昔の恩義のために私を匿ってくれただけで、彼には些かも咎められる筋はない。もしも治兵衛や妻子が罰せられたりするようなら、あなたからとりなしていただきたい、あなたならそうして下さると思うので、折入って私からお願いしておきます。