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しっちょうき
失蝶記
山本 周五郎
「別冊文藝春秋」文藝春秋新社、1959(昭和34)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 22,072 字 · 44 页
おすえが答えようとすると、治兵衛の手がさぐるように肩を押えた。おすえは黙り、戸の外で人の声がするのを聞いた。
「おちつけよ」と治兵衛が囁いた、「釜戸の蔭で待つんだぞ、慌てるな」
おすえは息が詰りそうになった。
「ちょっと起きてくれ」と、表の戸の外で男が云った、「坂下の茂七だ、人しらべに城下からお役人がみえている、ここをあけてくれ」
おすえは釜戸の蔭へ身をひそめてから、父がなぜそこに隠れろと云ったか、という理由に気がついた。戸外の人は表だけでなく、裏のほうにもいるらしい。裏の洗い場のところで物の倒れる音がし、「しっ」と制止する声が聞えたのである。――治兵衛は行燈に火を入れてから、土間へおりて潜り戸をあけた。すると提灯を持った茂七を先に、侍が一人はいって来た。茂七は、この村の名代名主であるが、家の中をひとわたり見まわしてから、土間をぬけて裏戸をあけ、提灯を振ってなにか云ったが、おすえにはよく聞きとれなかった。
「変った事はない」と外で答える声がした、「出て来た者もない」
そしてすぐに、茂七のあとから若い娘と、下僕とみえる男がはいって来た。裏戸はあけたままであった。