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しんしょたいこうき

新書太閤記

吉川 英治

01 第一分冊

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 180,256 字 · 361 页

青空文庫

「そんなでもございません」

濡手拭を、顔に当てながら答えた。

「殿様が、お召しだ。そっと、奥のお庭の中木戸を開けて通れ」

「え、殿様が。……では誰か、昼間のことを、云いつけましたね」

「あんな雑言を吐きちらして、お耳に入らぬわけはない。疋田先生が先ほどまで、お部屋で話しておられたから、多分、疋田様からお聴きになったのだろう。……お手討かもしれぬぞ」

「そうでしょうか」

「奉公人たる者は、朝夕武道怠るべからず――というのは、松下家の鉄則じゃ。家憲の威厳を明らかにすると仰っしゃれば、もう首はないものと思えよ」

「では私は、ここから逃げ出します。こんなことで、死ぬのはいやです」

「ばかをいえ」

能八郎は、日吉の腕くびを捕えて云った。

「貴様を逃がしたら、おれが腹を切らなければならぬ。召しつれて来いという仰せをうけて来たからには」

「逃げることもできませんか」

「貴様は一体、口が過ぎる。少しはものを考えていうものだ。昼間の広言を聞けば、この能八郎ですら、小癪な猿と思う。……とにかく早く来い」

日吉を先に歩かせて、能八郎は後から、刀の柄を握りながら尾いて行った。

黄昏の庭木の暗がりに、白い綿虫の群れがうごいていた。