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こよみ

暦

壺井 栄

「新潮」1940(昭和15)年2月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 56,332 字 · 112 页

青空文庫

九

「実枝よ、よう凪いどら、今夜は船は早鞆丸で、幸先えいが」

「ん」

実枝はうなずく。桜も蕾がふくらんだとはいえ三月末の陽気は日暮の近づいた今、肌のしまる寒さであった。実枝は羽織も着ず、四股をふんだ。人家のある方へ急な坂を、ところどころ段々をつけた一本道が流れこんでいる。その坂道を実枝は、だあと勢いこんでかけだしていった。クニ子が、

「実枝、実枝」

と呼んだが、はずみをくってとまらぬ石ころのように、黄色いメリンスの兵子帯が背丈の真中でゆさぶられながら、実枝は谷底へ落ちこんでゆくような早さで遠ざかっていった。

九

静かな明けくれであった。クニ子と二人きりになると、無駄口さえもあまりきかないほど、もそっとした侘しいほどの毎日がつづいた。実枝がいる時は腰を踏ませたり、肩をたたかせたり、そして剽軽な実枝はつくづくと重吉の頭を見て、

「お父さんの頭、はげてつるつるじゃけんど額との境目はやっぱりちゃんと分るのう」などと笑わせることもあったが、クニ子には肩をもんでくれともいいかねた。クニ子が勤めを終えて戻ってくるまでに、飯だけは炊いておく慣わしの重吉が時には不細工な手ぎわでワケギのぬたを作っていたり、魚を焼いたりもした。