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もみノきはのこった
樅ノ木は残った
山本 周五郎
01 第一部
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 148,519 字 · 296 页
と甲斐が云った、「それ以上にはなにも云えない、そして、私のでかけることは、おくみのほかには誰にも気づかれてはならないのだ」
「では、わたくしは――」と律は良人を見た。そのとき床脇の三尺のひらきが、音もなくあいて、衣類をひと揃え抱えたおくみがはいって来た。
「ここで寝ていてくれ」
と甲斐は妻に云い、立っておくみのほうへいった。
「私が戻って来るまで、ここで寝て待っていてくれ」
「なにか大事な御用談があるんですのね」
「律には縁のないことだ」
「いいお役目だこと」と律が云った。
彼女は振向いて、甲斐に着替えさせているおくみを見た。
「くみさん、いつもこんなことがあるんですか」
「いつものことですわ」とおくみが云った、「お泊りになるのはごくたまですけれど、そういうときにはたいてい、お忍びでおでかけときまっていますわ」
「ながく待たなければならないのでしょうか」
律が良人に訊いた。甲斐は紺染めの麻の帷子に、黒い帯をしめ、袴は着けず、黒い足袋をはいて、腰には脇差だけ差した。
「一刻ほどで戻るだろう」と甲斐は云った、「おくみ、提灯だ、――」
裏木戸から外へ出た甲斐は、やはり紺染めの麻の布で顔を包み、白張りの小提灯で足もとを照らしながら、石段の坂をおりていった。