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たきぐち
滝口
山本 周五郎
「小説新潮」新潮社、1963(昭和38)年11月〜1964(昭和39)年2月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 49,815 字 · 99 页
「かたじけないな」と益村は云った、「よく覚えておきましょう」
そして振り向いてあるきだした。芳村伊織という男はあとに残った。
芳村はどういう立場にいるのか、と安宅は考えてみた。衣笠のおわきの話では、二千石とかの旗本だったが、おりうを追ってこの山ぐにまではるばる来たのだという。事実とは信じがたいが、もし事実だとすれば、少なからず異常だ。旗本御家人というのは幕府の中でも別格な存在で、他のことはともかく、その進退にはきびしい制限があり、女のあとを追って江戸からはなれる、などということは不可能だと聞いている。もちろん人間のことだから、すべての者がその制限に服従して誤らないとはいえない。幕府の禁制も家名も捨てて、江戸から出奔するという例もあるに違いない。――だが、芳村伊織はそんなふうにはみえなかった。人品も悪くないし、暗くてよくは見えなかったが、みなりもきちんとしていた。女のために前後を忘れて、旗本二千石の家名を捨て、こんなところまであとを追って来るような、だらしのない、崩れたような感じはどこにもなく、どこか大身の武家の道楽息子、とでもいうような人柄にみえた。