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たきぐち

滝口

山本 周五郎

「小説新潮」新潮社、1963(昭和38)年11月〜1964(昭和39)年2月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 49,815 字 · 99 页

青空文庫

九

老人はもういちど会釈し、笠をかぶって去っていった。

九

「いやな方、思いだし笑いなんかなすって」おりうは酌をしながら云った、「なにかいいことでもあったんでしょ」

「おりうも飲めよ、今夜は話があるんだ」

「珍らしいこと」おりうはすぐに盃を持ち、上眼づかいに安宅を見た、「やっぱりなにかいいことがあったのね」

「いいかわるいかはおりうしだいだ」

そう云いながら、安宅が酌をしてやった。おりうは神妙に、いただきますと云って一と口啜ってから、安宅の言葉を聞き咎めた。

「あたししだいって、――こわいようなこと仰しゃらないで」

「いつか袖ヶ崎へいこうと云ったな」

おりうは安宅の眼をみつめてから、ゆっくりと頷いた。

「四五日うちにゆこう」と安宅が云った、「もちろん泊りがけでだ」

おりうは安宅の眼をみつめたまま、ちょっと息を詰め、そして静かにきき返した、「――それ、本気で仰しゃるんですか」

「いやならむりにとは云わないよ」

おりうは俯向いて酒を啜った。

「こわいわ、あたし」

「むりにゆこうと云うんじゃないんだよ」

「そうじゃないんです、ゆくのがいやじゃないんです」おりうの声はふるえた、「あたしのほうからお願いしたくらいですもの、伴れていっていただけるのはうれしいんです、本当とは思えないくらいうれしいんです」