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くものゆめ

蜘蛛の夢

岡本 綺堂

岡本綺堂『蜘蛛の夢』。同一底本的分册已合并为一书。收入:蜘蛛の夢、穴、有喜世新聞の話、恨みの蠑螺、火薬庫、真鬼偽鬼、慈悲心鳥、女侠伝、廿九日の牡丹餅、放し鰻、馬妖記、平造とお鶴。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 147,189 字 · 298 页

青空文庫

「そんなに急いで帰るにも及ぶまい。おれは今日だけでもほかの人たちの三倍ぐらいも働いたのだ。」

こんな自分勝手の理屈を考えながら、佐山君は川柳の根方に腰をおろして、鼠色の夕靄がだんだんに浮き出してくる川しもの方をゆっくりと眺めていた。川のむこうには雑木林に深くつつまれた小高い丘が黒く横たわって、その丘には師団の火薬庫のあることを佐山君は知っていた。そうして、その火薬庫付近の木立や草むらの奥には、昼間でも狐や狸が時どきに姿をあらわすということを聞いていた。

煙草好きの佐山君は一本の煙草をすってしまって、さらに第二本目のマッチをすりつけた時に、釣竿を持った一人の男が蘆の葉をさやさやと掻き分けて出て来た。ふと見るとそれは向田大尉であった。佐山君はほとんど毎日のように師団司令部に出入りするので、監理部の向田大尉の顔をよく見識っていた。

「今晩は……。」と、佐山君は起立して、うやうやしく敬礼した。

大尉はたしかにこっちをじろりと見返ったらしかったが、そのまま会釈もしないで行ってしまった。佐山君は自分に答礼されなかったという不愉快よりも、さらに一種の不思議を感じた。