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ノア

ノア

久生 十蘭

「富士」1950(昭和25)年2月号~4月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 77,285 字 · 153 页

青空文庫

十六日目の正午、最後の酒を分配し、それで別盃をあげた。古屋軍医補は小鳥が水を飲むようにチビチビ酒を飲んでいたが、だしぬけに嗄れた声で、

「グラマンがきた」

と空を指した。

空の高みに忘れかけていた「文明」のすがたを見た。敵も味方もない。ただなつかしかった。山内は棒切れにボロ布を結びつけ、みなに後から支えられながら必死に振った。大矢少尉がいった。

「アメさん、どうせ落すなら、筏のまんなかへ落してくれよゥ」

なるほど餓死するより爆弾でひと思いにやられるほうがいい。それでみな口々に、

「しっかりたのむぞォ」

と叫びあげた。

えもいえぬ期待のうちに、グラマンは千メートルほどのところまで下ってきて、ユルユルと筏の上を旋回しはじめた。

「そら、やるぞ」

しかしなにもやらなかった。異様なまでに厖大な筏と、その上の人間の境遇を見さだめると、冷淡なようすで筏から離れ、担当任務を果すために高度をあげて西のほうへ飛び去った。

万事は終った。もう死ぬだけだった。焼けつくような太陽の光を避けるために山内はまた帆布の下へ這いこんだ。そこで最後の息をひきとるつもりだった。それにしてもなにか書き残して置こうと、板切れに鉛筆で筏の上の反乱と人肉嗜食の顛末のあらましを書きつけた。