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ノア
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久生 十蘭
「富士」1950(昭和25)年2月号~4月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 77,285 字 · 153 页
檣に打ちつけたいと思ったが、それをするだけの力は残っていなかった。
岡中尉はあおのけに寝て、
「海へ投げこんでくれ、海へよう」
と子供のように泣きつづけた。大矢少尉は大切なお守を落したと嘘をいっていくども海へ飛びこもうとした。その実、動かないように自分の身体を肋材へしばりつけているのだった。笑えもしない狂態がいろいろと演じられた。
次ぎ次ぎに消えるように死んで行き、五日もたたないうちに山内一人だけになってしまった。
こんな状況のなかで、山内は茫々と空を見て生きていたが、ある朝思いがけなく、一羽のアジサシが筏の上へ降りてきた。
アジサシは疲労のために飛べなくなっていることが山内にもわかるような、いかにもともしいようすで筏の上をよろけまわっていた。
山内は仰向けに寝たままアジサシの動作を眺めていた。手の届くところにナイフがある。この鳥を食えば、食って生きのびた日数のうちにひょっとして助かるチャンスが訪れるかもしれない。それはあり得ることだった。しかし山内はそうはしなかった。ナイフを使う力がまだ自分の身体のなかに残っているのがふしぎだったが、これは、そうするように、なにかの力が作用しているのだと思いつつ、自分の生涯でも最後の仕事に努力してとりかかった。