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ちめいのけんきゅう

地名の研究

柳田 国男

地名の話「地学雑誌 第二四年第二八六号~第二八八号」東京地学協会、1912(大正元)年10月15日、11月15日、12月15日<br>地名と地理「地理学評論 第八巻第五号~第六号」古今書院、1932(昭和7)年5月1日、6月1日<br>地名と歴史「愛知教育 第五五九号」愛知県教育会、1934(昭和9)年7月1日<br>地名考説 一~四、一九後半、三一後半「民族」民族発行所、1926(大正15)年5月~1927(昭和2)年3月<br>地名考説 五~一八、一九前半、二〇~二二、二五~二八、三一前半「歴史地理」三省堂書店、1910(明治43)年2月~1912(明治45)年8月<br>地名考説 四五~四八「土俗と伝説」文武堂書店、1918(大正7年)8月~1919(大正8)年1月<br>地名考説 五五「考古学雑誌」聚精堂、1911(明治44)年5月15日<br>地名考説 二三~二四、二九、三〇、三二~四四、四九~五四「郷土研究」郷土研究社、1913(大正2)年3月~1917(大正6)年3月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 176,308 字 · 347 页

青空文庫

八

まして城砦の保護があったとすれば、末々繁昌するのは当然であると言ってよい。ただ考えてみなければならぬことは、ハバが開かれて邑落となるには、焼畑用地の不足、人口の余剰、畠作物の種類の増加、農技術の進歩というがごとき、他にもいろいろの条件を要したことである。単に有力なる武家がその岡の上にいたというだけではなかったのである。

八

この点があるいは城廓方式の近世の変遷を促した一つの事由ではないかと私は思う。断崖険岨の上に建ちまたは周囲を川や湖沢で囲んだものは、自身の出入りに不便であったというだけでなく、日常の用品にも早く欠乏しやすい憾みがあった。ゆえに一方には商工の徒をも城の眼の下に抱え置いたのだが、同時にある程度までの農作をも営ませる必要があったのである。東北各地の大藩の屋敷割は、江戸と比べものにならぬほど広かったが、その江戸とても元は山手には多くの常畠があった。穀作までも若干はさせていたのではないかと思う。しかしそれがおいおいに肆廛となり、往還はやや迂回しつつ、城のすぐ近くを貫ぬくようになった。城下が都市と化すべき端緒は、大きな道路とその上に立つ市場とであった。