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ちめいのけんきゅう
地名の研究
柳田 国男
地名の話「地学雑誌 第二四年第二八六号~第二八八号」東京地学協会、1912(大正元)年10月15日、11月15日、12月15日<br>地名と地理「地理学評論 第八巻第五号~第六号」古今書院、1932(昭和7)年5月1日、6月1日<br>地名と歴史「愛知教育 第五五九号」愛知県教育会、1934(昭和9)年7月1日<br>地名考説 一~四、一九後半、三一後半「民族」民族発行所、1926(大正15)年5月~1927(昭和2)年3月<br>地名考説 五~一八、一九前半、二〇~二二、二五~二八、三一前半「歴史地理」三省堂書店、1910(明治43)年2月~1912(明治45)年8月<br>地名考説 四五~四八「土俗と伝説」文武堂書店、1918(大正7年)8月~1919(大正8)年1月<br>地名考説 五五「考古学雑誌」聚精堂、1911(明治44)年5月15日<br>地名考説 二三~二四、二九、三〇、三二~四四、四九~五四「郷土研究」郷土研究社、1913(大正2)年3月~1917(大正6)年3月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 176,308 字 · 347 页
分村の原因として各時代を通じて最も有力なのは、言うまでもなく人口の増加である。荘園内の山野は片端から開墾せられて、別所加納の村ができた。この事実は直接に惣領職の衰微であった。何となれば荒野を開く権利は惣領に属していたからである。総領の衰微はすなわち庶子の分立で、分割相続は日本の国風であったゆえに、家督の制度は久しく存続することが困難であった。この間にまた領主と地頭との論諍はしばしば下地の中分を促した。この痕跡は今日でも諸国の地名に残っている。地頭方・領家方などというのがこれである。元八王子村の大字一分方・二分方なども、分割相続の痕跡である。領主が弱くなれば個々の名主はその名子をひきいて独立する。徳川時代にあっては知行の高を整数にするのに(軍役の計算を便にするため)、越石分給が多くては面倒であるから、なるべく村の小さいことを希望した。すなわち勘定の便利を本位にした点は村を補助貨幣のごとく取り扱ったわけである。地侍を鎮撫するためにも、なるべく多くの名主・庄屋を設ける必要があった。村の人数が殖え田畠が多くなると、管理が届かぬという理由ですぐにこれを二つに別けてしまったのである。