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ちめいのけんきゅう

地名の研究

柳田 国男

地名の話「地学雑誌 第二四年第二八六号~第二八八号」東京地学協会、1912(大正元)年10月15日、11月15日、12月15日<br>地名と地理「地理学評論 第八巻第五号~第六号」古今書院、1932(昭和7)年5月1日、6月1日<br>地名と歴史「愛知教育 第五五九号」愛知県教育会、1934(昭和9)年7月1日<br>地名考説 一~四、一九後半、三一後半「民族」民族発行所、1926(大正15)年5月~1927(昭和2)年3月<br>地名考説 五~一八、一九前半、二〇~二二、二五~二八、三一前半「歴史地理」三省堂書店、1910(明治43)年2月~1912(明治45)年8月<br>地名考説 四五~四八「土俗と伝説」文武堂書店、1918(大正7年)8月~1919(大正8)年1月<br>地名考説 五五「考古学雑誌」聚精堂、1911(明治44)年5月15日<br>地名考説 二三~二四、二九、三〇、三二~四四、四九~五四「郷土研究」郷土研究社、1913(大正2)年3月~1917(大正6)年3月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 176,308 字 · 347 页

青空文庫

享保はおそらくは東村上分がさらに東西に分れた年代であろう。新野東村下分は一名を工門という。すなわち公文名である。新野西分はすでに慶安四年に上中下の三つに分れておる。かくのごとく徳川の末頃には昔の新野荘は十の村となり、十人の庄屋がこれを支配し、三人の地頭の領地に分属していた。今の町村では二村にわたり、八つの大字である。新野東上分・新野東上西分及び新野東下分は合して一大字となり、ずっと古い時代の状態に復している。

次に久米郡稲岡の二ヶ村はまた昔の稲岡荘の地である。この荘は最初南北の二荘に分れた。後に北荘は里方と山方の二つに分れ、北荘山手村は承応元年に北荘山手上村・北荘山手下村と分れ、南荘の方は元禄二年に南荘西村及び南荘東村の二つになり、結局五ヶ村であったが、新町村となって二村三大字すなわち承応以前の状態に復したのである。全体この国では郡もだんだん分立して近年までは久米郡が二つ、苫田郡が四つ、勝田郡が二つというように小さく分れていたが、荘郷分合の趨勢もすべてこれと同様であってその命名法のごときもきわめて自然である。最後に今一つの例を附録として添えておく。