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しっちょうき
失蝶記
山本 周五郎
「別冊文藝春秋」文藝春秋新社、1959(昭和34)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 22,072 字 · 44 页
私は父を説きふせて、家督も弟の格二郎に譲り、長く空いていた隠居所へ移りました。父母にも、弟や妹にも顔を見られたくない。食事も召使にはこんでもらって、一人きりの生活を始めたのです。躯に故障はないのですから、早朝の沐浴も欠かさず、朝と夕方の二回、くたくたになるまで組み太刀の稽古もしました。あとは読書と習字で、よけいなことを考える暇のないよう、晴雨にかかわらずきちんと日課を守っていたのです。――冬になってからですが、私はうしろの物音を感じとることができるのに気がつきました。物音でなくとも、人の近よるけはいでも、ふしぎなほど敏感にわかるのです。人間が生れつき備えている自己保護の本能とでもいうのでしょうか、誇張して云うと、蝶が舞いよって来るのも感じとれるくらいでした。
「うしろに勘がはたらくというのはふしぎだ」と私は自分で苦笑しました、「どこかが不具になると、それを補うように、躯の機能が変るんだな」
躯そのものが不具者になる用意を始めた。苦笑するどころですか、私はそのときもいちど、医者から不治を宣告されたときよりも深く、激しい絶望に押しひしがれました。
杉永は十日に一度ぐらいのわりで訪ねて来、たいてい半刻か一刻、まどろっこしい筆談をいとわず話してゆきました。