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しっちょうき

失蝶記

山本 周五郎

「別冊文藝春秋」文藝春秋新社、1959(昭和34)年10月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 22,072 字 · 44 页

青空文庫

粟津明神の裏に立つと、谷間にかかる滝が眼の下に見え、秋になると紅葉が美しいので、城下から見物に来る者も少なくなかった。いまではそんな人も稀なようで、滝も昔よりずっと水量が減っていました。

滝に打たれるといっても、ご存じのとおり細いものですから、釣瓶の水を浴びるくらいにしか感じません。けれども、人影もないあの狭い谷間で、ひとりきままにすごす時間はたのしく、心ものびやかになるように思われるため、雨さえ降らなければ欠かさず打たれにいったものです。――このあいだにも、藩の情勢は複雑な変化を続けながら、尊王か佐幕か、いずれかに決定すべき時期が迫って来つつあり、杉永ははやり立つ同志をしずめるのに困っているようすでした。

あなたに会ったあの日、――まえの晩に杉永が来て、藩論を纒めるには、どうしても除かなければならぬ者がいると云って、真壁綱の名をあげました。真壁は故君の側用人で、仙台の強いうしろ盾があり、老臣の中でもっとも頑固に佐幕を主張している人間です。杉永がそう決心した気持はよくわかりますが、私は反対しました。水戸藩における天狗党の騒動のように、一人の暗殺から、家中が血で血を洗うようなことになりかねない。