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しっちょうき
失蝶記
山本 周五郎
「別冊文藝春秋」文藝春秋新社、1959(昭和34)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 22,072 字 · 44 页
人の姿はどこにもありません、気がついて崖の上を見あげると、あなたがこちらを覗いておられたのです。
「失礼しました」と私は云いました、「いまそちらへまいります」
刀を鞘におさめて私は扇を拾いました。それは薄く墨でぼかした地に夕顔の花が描いてあり、三分の一のところで二つに切れ、要でつながっているだけでした。自慢の腕が臆病の証しをしたか、私はそう思って苦笑しました。――それからあなたのところへいって、耳が聞えないために、狼藉をしたことを詫び、自分の名を名のって切れた扇を差出したのです。あなたは笑ってかぶりを振り、扇を受取ってからなにか云いたそうに、侍女の顔をごらんになった。それで私は矢立と手帳をあなたに渡したのです。
「耳がだめになってから、いつも持って歩いているのです」と私は云いました、「よろしかったらどうぞそれへお書き下さい」
あなたは会釈をして、扇は落した自分が悪いこと、詫びは自分のほうで云うべきであると書いて、手帳を戻されました。私はそれを読み、紺野かず子という署名を見て、初めてあなただということに気づき、思わず声をあげてしまいました。
「これはこれは、ふしぎなところでおめにかかりますね」