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だんがいのさっかく

断崖の錯覚

黒木 舜平

「文化公論 第四巻第四号」1934(昭和9)年4月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 12,483 字 · 26 页

青空文庫

いま思うと、なんの不思議もないことなのである。わかい頃には、誰しもいちどはこんな経験をするものなのだ。途上ですれちがったひとりの少女を見て、はっとして、なんだか他人でないような気がする。生れぬまえから、二人が結びつけられていて、何月何日、ここで逢う、とちゃんときまっていたのだと合点する。それは、青春の霊感と呼べるかも知れない。私は、その「いでゆ」のドアを押しあけて、うすぐらいカウンタア・ボックスのなかに、その少女のすがたを見つけるなり、その青春の霊感に打たれた。私は、それでも新進作家らしく、傲然とドア近くの椅子に腰かけたのであるが、膝がしらが音のするほどがくがくふるえた。私の眼が、だんだん、うすくらがりに馴れるにしたがい、その少女のすがたが、いよいよくっきり見えて来た。髪を短く刈りあげて、細い頬はなめらかだった。

「なにになさいます?」

きよらかな声であると私は思った。

「ウイスキイ。」

私は、誰かほかのお客がそう答えたのだと思った。しかし、客は私ひとりなのである。そのときは、流石に慄然とした。気が狂ったなと思った。私は、うつろな眼できょろきょろあたりを見まわした。