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ささめゆき
細雪
谷崎 潤一郎
02 中巻
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 194,628 字 · 371 页
―――お師匠さんは体の工合が悪い悪いと云いながらも、先月中は別にどうと云う程のこともなかったのであるが、日頃弟子に名取の免状を出すことを余り好まない人であったのが、七月三十日に、或るお嬢さんに名取を許すことになって、その式を自宅で挙げた。その時お師匠さんは、暑い折柄であるにも拘らず、きちんと紋服を着けて先代の写真を祭り、その前で祖母譲りの方式に依って盃事を厳重にしたが、翌三十一日にそのお嬢さんの家へ挨拶に行った時には何となく顔色がすぐれなかった。そして翌八月の一日に倒れたのであると云う。いったいに南海電車の沿線は阪神間と違って樹木が少く、こまこました家が建て詰まっているので、妙子は病院を捜し当てる迄に好い加減汗びっしょりになったが、その病院の、お師匠さんの病室と云うのが又西日の当る暑そうな部屋で、お師匠さんは弟子の一人に看病されながらそこで淋しそうに臥ていた。水腫はそんなにひどくはなく、顔も思った程むくんではいなかったが、妙子が枕もとに畏まって挨拶しても、もう分らないらしい様子であった。看病している人の話だと、たまに意識を回復することもあるけれども、大概は昏睡状態をつづけていて、ときどき譫語を洩らすのが、舞に関係した事柄ばかりであると云う。