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なんごくたいへいき
南国太平記
直木 三十五
Read 南国太平記 (なんごくたいへいき) by 直木 三十五 (なおきさんじゅうご) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 493,291 characters · 991 screens
斉興は、暫く、そうした幻を描いてから、薄く涙の滲んだ眼を開いて、経机の上の香炉へ、線香を立てた。お由羅が、珠数を渡した。斉興は、珠数を手にかけて、俯向くと同時に、膝の上へ落ちる涙を感じた。お由羅は、それを見て
(こう弱くなってはいけない)
と、感じた。それで
「お済みになりましたら、何か気晴らしを致しましょう」
と、声をかけた。だが、斉興は、俯向いたままで、返事もしなかった。
(ここまで来て、ここで弱くなっては、何んにもならない)
お由羅は、斉興に対して、じりじりと、焼けつくような、もどかしさと、憤りとをさえ感じてきた。
大老阿部伊勢守は、黒書院控の間の、床の前に、ただ一人で、膝へ両手を置いて、瞑目していた。
(なぜ、死んでくれたか?)
伊勢守は、目でこぞ泣かなかったが――いいや、泣くだけの力さえなくなっていた。
幕府の人々の中には、誰一人として、この国の大事の時に、阿部の力となり、慰めとなる人がなかった。将軍は、重臣は、町人から献金させてでも、奢侈な生活をしたがっていたし、旗本は、家重代の鎧までを入質して、生活費に当てているし、大名は、各々己の家を支えるだけに、全力を挙げなくてはならなかった。