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にんげんひょう

人間豹

江戸川 乱歩

「講談倶楽部」大日本雄辯會講談社、1934(昭和9)年1~2月、5月~1935(昭和10)年5月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 155,989 字 · 311 页

青空文庫

もしやその辺に影法師がぶら下がっているのではないかと、念入りにトラックのまわりをしらべてみたが、むろん何物も発見されなかった。恩田はやっと安堵を感じた。とうとうおれが勝ったぞ。美しい文代さんは完全におれのものになったぞ。彼は揺れるトラックの上を、いとしい人形箱によりかかりながら、豹の眼を細め、豹の口をだらしなくひらいて、ゾッとするような獣類の笑いを笑うのであった。

するとさっきの明智の電話は、単なるおどかしにすぎなかったのであろうか。名探偵は一個の怪談師になり下がってしまったのであろうか。いやいや、そうではない。そうでない証拠があるのだ。さいぜん明智は、「黒い糸」のことを言った。「黒い糸」が恩田にからみついて離れぬと言った。その黒い糸のようなものが、見よ、今恩田のトラックの尾端から、闇夜の道路に細々と筋を引いているではないか。赤いテイルライトの下あたりから、蜘蛛の糸のように絶え間なく地面に繰り出されているものがあるではないか。

だが、車上の恩田はむろんそれを知らなかった。またたとえ車を降りてその部分に眼をやったとしても、闇夜の中の、あるともなき一と筋の蜘蛛の糸を、いかな豹の眼とて、到底見わけることはできなかったに違いない。