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のぶこ

伸子

宮本 百合子

「改造」1924(大正13)年9月号~1926(大正15)年9月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 232,543 字 · 466 页

青空文庫

その時もその伝であった。すると、敷石を靴で来る跫音がした。伸子は糊刷毛を手に持ったまま耳を澄した。

「――御免なさい」

伸子は、その声を聞くと、糊をといてある丸盆を飛び越えて玄関へ出た。

「姉さんいる?」

「いるとも!」

「やあ――今日は」

和一郎が来たのであった。和一郎は九月一日に小田原から鎌倉へ行き、五日まで生死不明であった。中旬になって、やっと軍艦で帰京した。赤坂へはそれから初めてであった。

「――大変なのね、上ってもいい?」

「さあさあ、いいとも――和一郎さんが来たのよ」

と、伸子は働いている夫に声をかけた。和一郎は、伸子の後について、いっぱいとり散らした新聞紙をよけ、爪先立って奥の座敷へ入って来た。

「今日は――」

「いらっしゃい」

佃は、和一郎に背中を向けて椅子の上に立ったまんま、一言あいさつしたぎりであった。――伸子は感じたものがあり、和一郎を隣りの部屋につれ込んだ。

「お茶が入ってよ、いらっしゃらない?」

「私はいりません」

時々夫の様子を見に行っては、伸子は和一郎と久しぶりでいろいろしゃべった。何ということなく話はつきず、彼が訪ねてくれたのは嬉しい。