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こよみ
暦
壺井 栄
「新潮」1940(昭和15)年2月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 56,332 字 · 112 页
八
「いねよ!」
声をかけると窪んだ眼窩の中で薄い目を開け、
「きれい花がのう」と、声といっしょにいねはまた目をつむる。花の夢を見ればいよいよ死ぬといわれる。重吉は不安に顔をさしよせてゆき、
「いね」と、もう一度呼びかけた。いねはもう目を開けず、六十年の疲れをすっかり出したような小さい顔は、もうもう何ちゃいわずに寝さしておくれ、何もかも大儀じゃ、目をあけるのも、お前の声を聞くのも――とでもいうように、静かな、途絶えがちな呼吸をしてこんこんと眠っている。それをかき消すようにクニ子や実枝の若い健康な寝息がすう、すう、と響いてくる。寒い、凍るような毎夜であった。
八
「お父さん」と呼びかけられて重吉は、
「おう、戻ったか」
と、はじめて実枝に気づいたらしく笑顔をむけ、急いで煙管をはたいた。いねが死んだあと、
「おかしいもんじゃなあ、小便から何から赤子のように手がかかりよったのに、死なれてみると便利が悪いな」
と、重吉はクニ子や実枝といっしょにいねをなつかしみ、惜しんだ。半年以来手のかかり通しの病人であったが、いなくなられると一家の中心がなくなったようで、重吉もクニ子や実枝たちも落ちつかなかった。