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たきぐち

滝口

山本 周五郎

「小説新潮」新潮社、1963(昭和38)年11月〜1964(昭和39)年2月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 49,815 字 · 99 页

青空文庫

それだものだから本名は誰にも教えないのである、と彼女は大事な秘密でもうちあけるような口ぶりで、まじめくさって語ったものであった。

「いまね、先生」とだんごはぶきような手つきで酌をしながら囁いた、「おりうねえさんのあの人が来ているんですよ、あっちの、いつものお座敷に」

「だんごはもう酒が飲めるのか」

彼女はまるい顔の中の小さな眼を、まるくみひらいて彼を見た。そして、いま自分の云ったことがまあさまには気にいらないのだ、ということを理解したらしく、いそいで笑顔をつくりながら、ときには飲むこともできると答え、追っかけて「ときどきには飲むこともあります」と訂正した。いまはどうだときくと、だんごは右手で胃のところを押え、首をかしげて思案したのち、いまのところ飲みたいようではない、と済まなそうに答えた。そうして益村に酌をしながら、あたしは十二の秋に殿さまを見た、という話を熱心にし始めた。彼はどきっとしたが、顔色にはみせなかった。ついさっき――岡野さえのときと同じようだ、と思ったが、いままただんごの言葉でさえのことが思いだされたのだ。

――わたくし八歳の夏、殿さまのお姿を拝見したことがございます、とさえは彼に告げた。