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せいねん

青年

森 鴎外

「昴」1910(明治43)年3月~1911(明治44)年8月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 123,670 字 · 246 页

青空文庫

己は誰も云いそうな、簡単で平凡な詞と矛盾しているような表情を再びこの女子の目の中に見出した。そしてそれを見ると同時に、己のここへ来たのは、コルネイユやラシイヌに引き寄せられたのではなくて、この目に引き寄せられたのだと思った。

己は奥さんとどんな会話をしたかを記憶しない。この記憶の消え失せたのはインテレクトの上の余り大きい損耗ではないに違いない。しかし奇妙な事には、己の記憶は決して空虚ではない。談話を忘れる癖に或る単語を覚えている。今一層適切に言えば、言語を忘れて音響を忘れないでいる。或る単語が幾つか耳の根に附いているようなのは、音響として附いているのである。

記憶の今一つの内容は奥さんの挙動である。体の運動である。どうして立っておられたか、どうして腰を掛けられたか、又指の尖の余り細り過ぎているような手が、いかに動かずに、殆ど象徴的に膝の上に繋ぎ合わされていたか、その癖その同じ手が、いかに敏捷に、女中の運んで来た紅茶を取り次いで渡したかというような事である。

こういう音響や運動の記憶が、その順序の不確な割に、その一々の部分がはっきりとして残っているのである。