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にんげんひょう

人間豹

江戸川 乱歩

「講談倶楽部」大日本雄辯會講談社、1934(昭和9)年1~2月、5月~1935(昭和10)年5月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 155,989 字 · 311 页

青空文庫

時は花咲く春であった。人は恋を得て、心も空に浮き立っていた。だが、咲きほこる花の蔭にこそ、おどろおどろしきあやかしの黒い風が待ち構えているものだ。彼がその存在をふと忘れた時にこそ、魔性のものは彼のすぐうしろにたたずんでいるのだ。やがて或る日のこと、神谷は、とうとう、あの恐ろしい人間豹の眼を、ゾッと思い出さなければならなかった。

「ゆうべはどうして、僕をすっぽかして帰ってしまったんだい。あんなに約束しておいたのに。楽屋番のおじさんにすっかり恥をかいてしまったぜ」

その翌日、神谷が違約をなじったとき、蘭子はこんなふうに答えたのだ。

「あなた、からかっていらっしゃるの。それとも、そんなに忘れっぽくなってしまったの。あたしちゃんと送っていただきましたわ。それはそうと、あなたはゆうべ、車の中で、どうしてあんなにだまっていらしったの。少しばかり変なぐあいだったわ」

「えっ、僕が君を送ったって? それ、ほんとうかい。おとといの思い違いじゃないのかい」

神谷はびっくりして聞き返した。

「あら、それじゃ、あれ、あなたじゃなかったの? でも……」

なんだか、ちっとも物を言わないで変なぐあいではあったけれど、いつも神谷にするように話しかけると相手はそれに受け答えをしたのだし、別れる時には、いつもの通り、恋人同士の長い握手をさえかわし