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しんしょたいこうき
新書太閤記
吉川 英治
09 第九分冊
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 187,757 字 · 375 页
「地蔵ですっ」
「木之本の御陣場近くです」
誰となく口々に答えるをよそに、秀吉はなお鞍坐のまま、
「湯をひと口。水でもよい……」
と、求めた。
さし出す柄杓を、柄短に取って、ガブと一口のみ、初めて胸をのばした。
駈け寄った屯の部将が、馬前に来て、何か挨拶したが、秀吉の注意をひく間もなかった。秀吉と同時に馬から降りた人々やら、五馬身、十馬身、または半町、一町ぐらいな差で、駈け続いて来た面々が、わらわらと一時に駒を捨てたからである。忽ち附近はこの怒濤一色に塗りつぶされていた。
「高いな。だいぶ」
秀吉はすぐ歩を運び、櫓の下へ寄って宙を見上げていた。野天の井楼なので、階段もない。組まれている脚木を頼りに攀じ登るのである。
彼は率然と、若年一軽兵の頃の体験を、その肉体に思い出したらしい。持っていた柿団扇(軍配)の紐を佩刀の環にくくり付けると、井楼の雁木に足を懸け始めた。小姓たちは、その尻を押し上げ押し上げ、人梯子を重ね上げた。
「あっ。お危のうござる」
「ただ今、お梯子を」
遠くでは叫んでいたが、秀吉の姿は、はや二丈余の宙に立っていた。
この夜、天は清明――
尾濃平野を過ぎた暴れの余波もしずまり、星は静かに、琵琶、余吾の二湖は大小の鏡を投げたように見える。