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げんだいゆいぶつろんこうわ

現代唯物論講話

戸坂 潤

「現代唯物論講話」白揚社、1936(昭和11)年12月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 251,295 字 · 490 页

青空文庫

この所謂事実問題と権利問題との媒介にこそ、認識の本当の解明があるべきだ。――処で、模写とは、恰も認識のそうした解明のための概念なのである。それはこうである。

すでに云ったように、観念(まだ夫だけでは認識ではない)は存在の分枝である、存在の自然史的発展の或る時期に、特殊に高度の法則を備えた新しい存在として発生し、それが独特の存在の仕方にまで(自己意識・自我感にまで)発展したものである。処が初めの存在は存在で、観念の発生にも拘らず、無論従来通りの発展のコースを辿りつつある。そこで存在と意識とが対立するという事情が造り出される。主観と客観とがただ対立したり並んだりしているのでは決してない、その対立には一定の物質的・存在的・な歴史と必然性とがあってのことである。

従って主観は客観をただ、対立しているが故に認識するのではない。主観に偶々客観があてがわれたから認識するのではなくて、実は主観が客観からの分枝・派生物・であるが故に、存在上或る意味に於ける同一性が二つのものの間になければならぬのであり、而も観念・意識・は恰もそういう存在上の同一性を、自己という存在に於て自己同一性として自覚し得る特有性を有っていたのであるから、そこで初めて、認識という主観と客観との同一化が一応企てられ得るわけなのである。