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せいねん

青年

森 鴎外

「昴」1910(明治43)年3月~1911(明治44)年8月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 123,670 字 · 246 页

青空文庫

ここに可笑しい事がある。己は奥さんの運動を覚えているが、その静止しておられる状態に対しては記憶が頗る朧気なのである。その美しい顔だけでも表情で覚えているので、形で覚えているのではない。その目だけでもそうである。国にいた時、或る爺いが己に、牛の角と耳とは、どちらが上で、どちらが下に附いておりますかと問うた。それ位の事は己も知っていたから、直ぐに答えたら、爺いが云った。「旦那方でそれが直ぐにお分かりになるお方はめったにござりません」と云った。形の記憶は誰も乏しいと見える。独り女の顔ばかりではない。

そんなら奥さんの着物に就いて、どれだけの事を覚えているか。これがいよいよ覚束ない。記憶は却て奥さんの詞をたどる。己が見るともなしに、奥さんの羽織の縞を見ていると、奥さんが云われた。「おかしいでしょう。お婆あさんがこんな派手な物を着て。わたしは昔の余所行を今の不断着にしますの」と云われた。己はこの詞を聞いて、始てなる程そうかと思った。華美に過ぎるというような感じは己にはなかった。己には只着物の美しい色が、奥さんの容姿には好く調和しているが、どこやら世間並でない処があるというように思われたばかりであった。