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ゆだんたいてき

ゆだん大敵

山本 周五郎

「講談雑誌」博文館、1945(昭和20)年2月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 20,664 字 · 41 页

青空文庫

忠辰にだけ聞えるほどの声で、ゆっくりとそう云い続けた。

誰かが知らせたのだろう、そこへお守り役の老臣で稲垣浅之助という老人が走せつけて来た。忠辰はすばやくはね起きた、久之助もやおら立上りながら、いきなり大きな声で、

「まいった、まいった」と叫んだ。

するとかれの鼻からたくたくと衂血が流れだした。

「なにを御乱暴あそばすか」

駆けつけて来た老臣がそう叱りかけると、久之助は両手で鼻を押えながら云った。

「相撲のお相手をしていたのです、乱暴をなすったのではありません、相撲を取ってわたくしが負けたのです」

忠辰は赧くなった顔を俯向けて黙っていたが、老臣が去ると少年たちに、

「おまえたちは向うへゆけ」

と云って遠ざけ、懐紙を出して久之助の衂血を拭いてやった。

久之助の眼からぽろぽろと泪がこぼれ落ちた。忠辰の頬にも泪の条ができた、どちらも黙っていたが、心の糸とでもいいたいようなものがそのとき堅く結びついたのを、どちらもずっと後まで忘れることができなかった。

郷田権之助はわが子が特に寵愛されるということを好まなかった、かれはしばしば久之助に云った。

「ぬきんでてお気にいるということは正しい奉公ではない、そういう者はとかく同輩のそねみの因ともなり、寵をおのれに取ろうとしてあらぬ競争心を誘いやすい。