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のぶこ

伸子

宮本 百合子

「改造」1924(大正13)年9月号~1926(大正15)年9月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 232,543 字 · 466 页

青空文庫

この木いっぱいに薔薇が花をつけていた頃、三十日も前になるだろう、彼女は田舎にいて、夜毎に耳だつ広い虫の音と、黄色くなって来る庭の芝を見て暮していた。その間の気持や、今自分達二人が、透明に秋陽のさす庭で、薔薇を剪る剪らぬと云い縺れている心持。烈しく愛し合っていた筈の二つの心が連絡を失い、ただ、離れ切れない消極の力だけに牽かれて、互に牽きつ牽かれつしている状態が、切なく伸子に迫った。これから何年か経った後のある秋晴の日、偶然今日の些細なこの情景が、記憶の底から浮び上ることがあったら、縁側にこうやって坐っていた自分、庭にいる佃の姿、美しかった二輪の薔薇は、何を自分に語るだろう。

翌朝、黎明に、伸子は硝子戸から庭をすかして見た。薔薇は露に濡れ、うなだれながら、色鮮かに、昨日と変らず咲いている。その無心な鮮かさ、浄らかさが、異様に伸子の心を傷ませた。彼女は眼を逸すようにして通り過ぎた。

三

夜の八時。スミルノフが、ハフィズの詩を音読していた。後について、佃が抑揚を注意しながら、一節ずつ読んで行く。――喉音の多い、単調な二つの男の声は、あたりの空気を重く感じさせた。