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ぜんのけんきゅう
善の研究
西田 幾多郎
「善の研究」弘道館、1911(明治44)年2月6日発行
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 123,777 字 · 243 页
デカートが余は考う故に余在りというのは已に直接経験の事実ではなく、已に余ありということを推理している。また明瞭なる思惟が物の本体を知りうるとなすのは独断である。カント以後の哲学においては疑う能わざる真理として直にこれを受取ることはできぬ。余がここに直接の知識というのは凡てこれらの独断を去り、ただ直覚的事実として承認するまでである(勿論ヘーゲルを始め諸の哲学史家のいっているように、デカートの「余は考う故に余在り」は推理ではなく、実在と思惟との合一せる直覚的確実をいい現わしたものとすれば、余の出立点と同一になる)。
意識上における事実の直覚、即ち直接経験の事実を以て凡ての知識の出立点となすに反し、思惟を以て最も確実なる標準となす人がある。これらの人は物の真相と仮相とを分ち、我々が直覚的に経験する事実は仮相であって、ただ思惟の作用に由って真相を明にすることができるという。勿論この中でも常識または科学のいうのは全く直覚的経験を排するのではないが、或一種の経験的事実を以て物の真となし、他の経験的事実を以て偽となすのである。たとえば日月星辰は小さく見ゆるがその実は非常に大なるものであるとか、天体は動くように見ゆるがその実は地球が動くのであるというようなことである。