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だんがいのさっかく

断崖の錯覚

黒木 舜平

「文化公論 第四巻第四号」1934(昭和9)年4月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 12,483 字 · 26 页

青空文庫

君も飲まないか。」

「私、飲めないの。」

「飲めよ。きょうはねえ、僕、うれしいことがあるんだ。飲めよ。」

「では、すこうし、ね。」

雪は、そう言ってカウンタア・ボックスに行って、二つのグラスにウイスキイをなみなみとたたえて持って来た。

「さあ、乾杯だ。飲めよ。」

雪は、眼をつぶってぐっと飲んだ。

「えらい。」私もぐっと飲んだ。「僕ね、きょうはとても、うれしいんだ。小説は書きあげたし。」

「あら! 小説家?」

「しまった。見つけられたな。」

「いいわねえ。」

雪は、酔っぱらったらしく、とろんとした眼をうっとり細めた。それから、この温泉地に最近来たことのある二三の作家の名前を言った。ああ、そのなかに私の名前もあるではないか。私は、私の耳をうたがった。酔がいちじに醒める気がした。ほんものがこのまちに来ている。

「君は、知っているの?」

私は、こんな場合に、よくもこんなに落ちつけたものだ、といまでも感心している。臆病者というものは、勇士と楯のうらおもてぐらいのちがいしかないものらしい。

「いいえ。見たことがないわ。でもいま、そのかた、百花楼に居られるって。あなた、おともだち?」