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あさくさふどき

浅草風土記

久保田 万太郎

雷門以北「東京日日新聞 夕刊」1927(昭和2)年6月30日~7月16日<br>吉原付近「中央公論」1929(昭和4)年2月<br>続吉原付近「中央公論」1929(昭和4)年3月<br>隅田川両岸「中央公論」1935(昭和10)年9月<br>浅草田原町「三田文學」1912(明治45)年2月<br>あやめ団子「花形」1920(大正9)年8月<br>相模屋の路次・浅倉屋の路次「新演藝」1920(大正9)年8月<br>浅草の喰べもの「中央公論 夏期特別號」1920(大正9)年7月<br>夏と町々「時事新報 夕刊」1929(昭和4)年6月1日~30日<br>絵空事「新潮」1932(昭和7)年3月<br>一年「東京新聞」1946(昭和21)年4月15日<br>浅草よ、しずかに眠れ「苦樂」1948(昭和23)年2月<br>夜店ばなし「婦人公論」1931(昭和6)年7月<br>除夜「週刊朝日」1930(昭和5)年12月28日號<br>正月「婦人公論」1932(昭和7)年1月<br>水の匂「文藝春秋」1941(昭和16)年7月<br>町々…… 人々……「別冊文藝春秋」1955(昭和30)年2月~6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 162,294 字 · 318 页

青空文庫

――浅草学校は、浅草に、その時分まだ数えるほどしかなかった「市立」のうちの最も古いものだった。

毎日、わたしは、祖母と一しょに「馬車みち」――その時分まだ、東京市中、どこへ行っても電車の影はなかったのである。どこをみても「鉄道馬車」だったのである。だからわたしたちは「電車通り」という代りに「馬車みち」といった。東仲町の今電気局のある所に馬車会社があったのである。――を越して「浅倉屋の露地」を入った。今よりずっと道幅の狭かったそこは、しばらく両側に、浅倉屋の台所口と、片っぽの角の蕎麦屋の台所口との続いたあと、右には同じく浅倉屋の土蔵、左には、表に灰汁桶の置かれてあるような女髪結のうちがあった。土蔵のつづきに、間口の広い、がさつな格子のはまった平屋があった。出羽作という有名なばくちうちの住居だった。三下が、始終、おもてで格子を拭いたり水口で洗いものをしたりしていた。――ときには笠をもった旅にんのさびしいすがたもそのあたりにみられた。

道をへだてて井戸があり、そばに屋根を茅で葺いた庵室といったかたちの小さなうちがあった。さし木のような柳がその門に枝を垂れ、おどろに雑草がそのあたりを埋めていた。