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あさくさふどき

浅草風土記

久保田 万太郎

雷門以北「東京日日新聞 夕刊」1927(昭和2)年6月30日~7月16日<br>吉原付近「中央公論」1929(昭和4)年2月<br>続吉原付近「中央公論」1929(昭和4)年3月<br>隅田川両岸「中央公論」1935(昭和10)年9月<br>浅草田原町「三田文學」1912(明治45)年2月<br>あやめ団子「花形」1920(大正9)年8月<br>相模屋の路次・浅倉屋の路次「新演藝」1920(大正9)年8月<br>浅草の喰べもの「中央公論 夏期特別號」1920(大正9)年7月<br>夏と町々「時事新報 夕刊」1929(昭和4)年6月1日~30日<br>絵空事「新潮」1932(昭和7)年3月<br>一年「東京新聞」1946(昭和21)年4月15日<br>浅草よ、しずかに眠れ「苦樂」1948(昭和23)年2月<br>夜店ばなし「婦人公論」1931(昭和6)年7月<br>除夜「週刊朝日」1930(昭和5)年12月28日號<br>正月「婦人公論」1932(昭和7)年1月<br>水の匂「文藝春秋」1941(昭和16)年7月<br>町々…… 人々……「別冊文藝春秋」1955(昭和30)年2月~6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 162,294 字 · 318 页

青空文庫

五

銀行といえば、手近に、並木通りの浅草銀行(後に豊国銀行)の古く存在するばかりだったのである。”

と、「雷門以北」にしるした位のものの、ぼくの田原町を去ったのは大正三年の十月だったが、いまから四昔まえにあっては、実、以て、そうした嘘のようなていたらくだったのである。

といっても、ぼくには、広小路の……というよりは浅草のこの経済的発展に、遽かにおどろくことができないのだが……

いまの協和銀行のあるところにあったのが、川崎銀行である。

五

明治四十年にでた、東京市編纂の『東京案内』は、以上の“広小路”の町々、及び、それに近接した、並木町、茶屋町について、つぎのように説明している。

“並木町――古へ、松、桜、榎等の列樹、路を夾でありしを以て名くと云ふ。慶安頃まで、樹間に草舎ありて、草履草鞋など販しのみなりしが、後漸く人家稠密に及び、遂に今の街衢をなす。西方、西仲町続の処を、里俗大仏横町と云ふ。又、町の東、材木町に通ずる小路を犬糞横町と曰ひしと云ふ。”

“茶屋町――本と、並木町の内也。寛永十九年、浅草観音堂焼失し、正保四年、再造の時、堂の南方を火除地となし、雷神門内に在りたる町家を並木町に入る。