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あさくさふどき

浅草風土記

久保田 万太郎

雷門以北「東京日日新聞 夕刊」1927(昭和2)年6月30日~7月16日<br>吉原付近「中央公論」1929(昭和4)年2月<br>続吉原付近「中央公論」1929(昭和4)年3月<br>隅田川両岸「中央公論」1935(昭和10)年9月<br>浅草田原町「三田文學」1912(明治45)年2月<br>あやめ団子「花形」1920(大正9)年8月<br>相模屋の路次・浅倉屋の路次「新演藝」1920(大正9)年8月<br>浅草の喰べもの「中央公論 夏期特別號」1920(大正9)年7月<br>夏と町々「時事新報 夕刊」1929(昭和4)年6月1日~30日<br>絵空事「新潮」1932(昭和7)年3月<br>一年「東京新聞」1946(昭和21)年4月15日<br>浅草よ、しずかに眠れ「苦樂」1948(昭和23)年2月<br>夜店ばなし「婦人公論」1931(昭和6)年7月<br>除夜「週刊朝日」1930(昭和5)年12月28日號<br>正月「婦人公論」1932(昭和7)年1月<br>水の匂「文藝春秋」1941(昭和16)年7月<br>町々…… 人々……「別冊文藝春秋」1955(昭和30)年2月~6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 162,294 字 · 318 页

青空文庫

――その庵室のようなうちには、日本橋のほうの、小間物問屋とかの隠居が、一人寂しく余生を送っていた。”

昭和二年といえば、いまから二十七年まえ、ぼくのまだ三十九歳だったときである。……中年、三十九歳のときえた感懐を、老年、六十を越すに及んで、たまたま旧友のコトバにさそわれ、再びこれを容易に新たにしたということは。……子供の時分のおもいでというものは、なぜ、吁、こうも根強いものか……

出羽作親分に息子のあったことは、ぼくも知っている。しかも、きょうだい二人で、兄貴のほうは、オットリと、色が白く、骨細だったが、弟のほうは、みるから利かない気の、手のつけられない悪戯ッ子だった。後に竹島文吾になったのは、その兄貴のほうで、友ちゃんが河合武雄の弟子になったというのはあやまりで、小島文衛のことは知らないが、ぼくが知ってからのかれの師匠は喜多村緑郎だった。そのとき、すでに、中学生だったぼくのみた本郷座の舞台に於けるかれは、大きなリボンをひらひらさせたりする娘形だった。が、いつか、そのうちに、旅まわりにでもなったのだろう、東京からすがたを消した。そして、そのあと、約四十年、いつかもたまたま、楽屋で噂がでたが、師匠の喜多村も、きょうだい弟子の花柳章太郎も、その後のかれについて、何一つ知らなかった。