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かがりびのおんな

篝火の女

吉川 英治

「キング」大日本雄辯會講談社、1935(昭和10)年8月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 27,727 字 · 56 页

青空文庫

立ち寄る軒

もう夜も更けるに』

つい窓を明けてみた。

すると、誰やら、笠をかぶって、窓の外の夜更けを通って行く人影が、扇を口に当て、

はや潮の――

うしおに巻かれて

迷うよ

友の千鳥は。

はや潮の――

寄せくる磯ぞ

立てよ

残る千鳥は。

夜霞の小路の辻へ、謡いながら消えた。

『あっ? ……。今の謡は』

しきりと、海鳴の音が先刻から胸底に騒いでいる所である。八雲は、はっとして、そこを閉めた

間もなく、燭もふき消した。奥で、物音だけが暫く密かにしていたが、やがて庭境の塀のやぶれを潜って、隣地の大宗寺の林から丘へ逃げのぼった。

ほっと、息をついて何気なく、わが家の方を振返って見ると、何とあぶない一刻の差であったろう。表門裏門から提灯や松明をかざしてなだれ込んだ奉行所の手勢の声が、そこまで風に送られてくる程だった。

立ち寄る軒

『丑蔵……。開けておくれ。……丑蔵』

そぼ降る小雨のあいだに、こう人声がして、誰か憚るように戸を叩く者がある。

酒匂川の上流で、井細田村と足柄村に跨がっている小さい部落だった。五、六軒しかない筏流しを職とする土民の家もみな寝ているうちに、そこの一軒だけが、微かに、破れ窓から灯影を見せている。