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かがりびのおんな

篝火の女

吉川 英治

「キング」大日本雄辯會講談社、1935(昭和10)年8月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 27,727 字 · 56 页

青空文庫

珠玉の輦

まるで、雨なき夕立のように。

小銃の音が、ひろい闇の中で、パチパチと鳴りはためく。ひゅっ――と矢うなりが、萩乃の顔を何度もかすめた。

『おお! ……』

対岸に見える黒い小さい何百名かの人馬――正しくそれが安中勢であろう。あの中には、安中三郎進も来ているにちがいない。

『――お嬢様あっ。八雲様あっ』

声かぎり呼びながら、萩乃は、河へ向って、狂女のようにざぶざぶと入って行った。

珠玉の輦

北埼玉の多門寺に近い方角である。この辺、桑の木ばかりだった。その広い桑園のなかに、いつも、筬の音をのどかにさせている一軒の機屋がある。

多門寺の僧が、そこの戸を烈しく叩いていた。

『合戦ですよ、御主人。かねて待っていた安中勢らしゅうございますよ』

――それから暫くすると、

『では、御無事に』

『お気をつけて……』

一人の女の旅人が、機屋の者に送り出されて、裏口からそっと出て来た。

八雲であった。

『永い間、お匿いくださいました上、皆様の御親切……。たとえ、この儘野辺の土になっても忘れはいたしません』

別れもそこそこであった。もう、この近くへまで、鉄砲の音は聞えている。

東郷家にとっても、八雲にも、何の縁もない機屋であったが、多門寺の住職と道で口をきいたのが縁になって、彼女は、ここに今夜の折を待っていたのであった。