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かがりびのおんな
篝火の女
吉川 英治
「キング」大日本雄辯會講談社、1935(昭和10)年8月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 27,727 字 · 56 页
『――誰だい?』
丑蔵の女房のお菅らしい返辞である。やがて、がたぴし、内から戸をあけると、
『あっ、御城下のお嬢様?』
吃驚したのであろう、大きな声で云った。
『叱っ……』
霧のような雨を巻いて風が屋内の燈を暗く揺りうごかした。八雲は、脱いだ蓑をお菅の手にわたして、
『静かにしておくれ。やっと、人目をしのんで来たのだから――』
『ようお出でなさいました。こんな暗い雨の道を』
『雨の道より、方々に、私を捕えようとする奉行所の立札が廻っているので――。お前も、噂をお聞きでしょう』
『はい、きょうもうちの良人と、噂をしていた所でございますよ。さあ、炉ばたへお寄んなすって』
お菅は、薪をくべ足して、
『生憎、うちの良人も、小荷駄衆のお侍から出頭しろといわれて、夕方、酒匂のお役所まで行きましたが、もう間もなく戻りましょう』
そこに坐って、濡れた袂や裳を乾かしていると、小雨の音はしなかったが、酒匂川のすさまじい河鳴が遠く聞えてくる。
ここの主の丑蔵というのは、父の死ぬ頃まで、長年、東郷家の仲間をしていた者なので、この夫婦ならばと見込んで、八雲は、訪ねて来たのだった。
あれからの数日は、茨の路そのものだった。