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かがりびのおんな
篝火の女
吉川 英治
「キング」大日本雄辯會講談社、1935(昭和10)年8月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 27,727 字 · 56 页
と、書いてあった。
萩乃は、それを唯一の目的に来たのであるが、その頼りは、絶望に近い。
『いつぞやの夜、橋場の宿を追われて通ったのは、たしかに、八雲様らしかったが?』
萩乃は、餅売をしながら、それとなく北条方の足軽に訊ねてみたが、八雲の捕まったという噂は聞かない。それにつけ、
(お嬢様は、萩乃がこうしてお後を慕って来ているとは、夢にも御存じないであろう。……ああ早く行き会いたいが)と、念じた。
あの時。――もう過ぎし日であるが。
小田原の御幸浜で、萩乃を捕えた武士は、萩乃がふだんから北条家のうちで誰よりも憎く思っていた相木熊楠だった。
熊楠は、その時、さも快よげに云った。
(この小賢しい女には、俺自身で、糺したいことがある)
彼女は、それから数日、熊楠の屋敷のうちの仮牢へ抛りこまれていた。幸なことに、熊楠には上州攻めへ出陣の命が下ったので、邸は、ごった返していた。
すると。
熊楠がいよいよ出陣した晩だった。混雑まぎれに、家来でも落したのか、牢の前に、鞘を抜けた短刀が落ちていた。天祐か、それがやっと手の届くところにある。萩乃はその晩、仮牢を破った。そして、風雨の中を夢中で逃げ、身寄の漁師の家の床下、干鰯倉の闇、釣舟の中の幾日と、覚えきれない程な惨苦をなめて、やっと、奥州船へ乗り澄ましたのであった。