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かがりびのおんな

篝火の女

吉川 英治

「キング」大日本雄辯會講談社、1935(昭和10)年8月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 27,727 字 · 56 页

青空文庫

『――そういう事とは知らない八雲様は、もう、私は獄舎の人間か、死んだ者とお思いになって、一図に、先へお出でになってしまったのではないか?』

萩乃は、果なく迷い歩いた。

春はくれて五月――六月――

桑がしげり、麦はのびてくる。

然し、古河から利根川一帯の兵馬は、雲の峰の下に、じっと備えたまま、動かなかった。

安中城からの迎えも見えない。

八雲の消息も皆目知れない。

餅の籠を腕にかけて、彼女は炎天の下を、

『――足軽さん、買うて下され』

桑畑の蔭を、呼んであるいた。

ところが、その日に限って、

『要らん』

『餅など頬ばっていられるか』

どこへ行っても、売れなかった。

すると後で、

『おい、天人餅を一つくれ』

久しく、姿が見えなかった外郎売が、ひょっこり、顔を見せて呼びとめた。

『――どうだい、売れるかい』

『ええ。陣中薬は、どうかね』

『薬のほうは、大変な景気さ。もうこの間の荷を売り切って、小田原まで荷を取りに行って来たんだ』

『戦もないのに、よう傷薬が売れるだな』

『戦がない? ……何を寝ぼけているんだ、深谷、本庄、秩父の鉢形、この一月余りは、修羅の巷だ。――そして今は、武田方と北条勢が、一手になって、安中城を遠巻きにしてるじゃねえか』