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せいねん

青年

森 鴎外

「昴」1910(明治43)年3月~1911(明治44)年8月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 123,670 字 · 246 页

青空文庫

それと同時に思想が段々秩序を恢復して来た。澄んだ喜びが涌いて来た。譬えば paroxysme をなして発作する病を持っているものが、その発作の経過し去った後に、安堵の思をするような工合であった。己は手に一巻のラシイヌを持っていた。そしてそれを返しに行かなくてはならないという義務が、格別愉快な義務でもないように思われた。もうあの目が魔力を逞うして、自分を引き寄せることが出来なくなったのではあるまいかと思われた。

突然妙な事が己の記憶から浮き上がった。それは奥さんの或る姿勢である。己がラシイヌを借りて帰ろうとすると、寒いからというので、小間使に言い付けて、燗をした葡萄酒を出させて、己がそれを飲むのをじっと見ていながら、それまで前屈みになって掛けていられた長椅子に、背を十分に持たせて白足袋を穿いた両足をずっと前へ伸ばされた。記憶から浮き上がったのは意味のない様なあの時の姿勢である。

あれを思い出すと同時に、己は往くときから帰るまでの奥さんとの対話を回顧して見て、一つも愛情にわたる詞のなかったのに驚いた。そしてあらゆる小説や脚本が虚構ではあるまいかと疑って見た。