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ごべんのつばき

五瓣の椿

山本 周五郎

「講談倶楽部」1959(昭和34)年1月~9月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 149,721 字 · 296 页

青空文庫

――逃げられたか。

しまったと思い、彼は手荒く障子をあけた。雨の日の黄昏で、座敷の中はすでに暗く、香をくかおりが噎せるほど強く匂っていた。

「おしの」と云って、彼は咳こんだ、「おしの、いるか」

千之助は障子をいっぱいにあけ放った。

小机の上に香炉が煙をあげてい、火鉢の脇に、娘が俯伏せに倒れていた。千之助は棒立ちになり、上からじっと見おろしていたが、長い経験で、それがもう死躰であるということは一と眼でわかった。

「おそかったな」と彼は呟いた、「待てなかったのか」

彼は頭の中のどこかで、おしのを助けよう、と思っていたことに気づきながら、身を跼めて、死躰をそっと仰向きにした。娘の両手は、胸に突き刺した短刀の柄を握っていた、両足は膝のところを、着物の上から固く扱帯で縛ってあった。――千之助は娘の躯が楽になるように、仰向きにきちんと寝かせてから、踏石のところへ出て手を鳴らした。

女中に行燈の火を入れさせ、八丁堀へ使いをやるように命じた。座敷へはいれなかったので、女中はなにも気づかなかったろう。千之助としては、誰にもおしのの死躰を見せたくない気持だったが、役目の責任として、同心を呼ばないわけにはいかなかったのである。